立石なんでも図鑑を始めたワケ&立石に戻ってくるまでのこと


自分が生まれ育った町立石を誇りに思うようになったのは、つい最近のことです。


1.ひどいコンプレックス


立石と一気に距離が遠くなったのは、中学生のときのこと。
越境通学だったので、江戸川を越えて隣の市川市まで通っていました。
市川中学には首都圏のいろいろなところから学生が集まってきます。
千葉の進学校では、流行にさとい学生はすごく目立ちました。
当然、クラスで話題にのぼることは、
立石で生まれ育った私が知らないことばかり。
当時は、都会のきれいでオシャレな町や最先端のものにあこがれても、
立石のようにゴミゴミした町やレトロな雰囲気を
受け入れる感性はありませんでした。
むしろひどいコンプレックスがあったくらいです。



2.演劇との出会い


偶然、大学では演劇を始めました。
毎日、演劇のことを考えるほどのめりこみ、
自分で仲間を集めて劇団をつくり、
本を書き、演出をするようになりました。
芝居をつくるうちに、人真似ではないものはなにか、
自分が表現できるものはなにかを考えてきます。
演劇をつくることではじめて
自分自身の気持ちと向き合うことができるようになりました。

でも、まだそのときはそこまで。
朝早く出かけて、夜遅く帰ってくる町。
当然、立石で飲食をしたこともありません。
利用するのは、コンビニやチェーン店ばかり。
立石は寝るために帰る場所でした。



3.地域でつくる演劇


その後、大学を卒業し、演劇のプロとしてやっていくため、
立石を飛び出し、一人暮らしを始めます。
数年後、いろいろな地域で演劇とは関係ない人たちと
演劇をつくる仕事をやり始めました。
私たちは地域の人を取材をして演劇をつくります。
どんな地域にも、よそ者の自分にとって、
新鮮でおもしろいものがたくさんありました。
芝居づくりの過程では、
地域の人と出会い、地域のものを食べ、地域の歴史を知っていきます。
地域のよいところが次々と出てきます。
また芝居づくりは人と人との関係づくりですから、
参加者はもちろん、町の人たちとも関係ができ、
その延長で、すごくおもしろい芝居ができます。



4.極めつけは水俣でのお仕事


2006年。水俣病公式確認50年目の年に
半年間熊本県の水俣市に住み込みながら、
水俣病胎児性患者や障害者の人たちと演劇をつくる仕事をしました。
水俣病発生以来の住民同士の根深い差別、施設間の権力争い、
そして行政からの委託事業という縛り、支援者(よそ者)への厳しい目。
自分はそんな困難な状況の中で、
演劇を成立させるための組織づくりをする役割でした。
よそ者の私はひたすら人に会い、話を聞きました。
すると、水俣は水俣病のひどい被害を受けた土地である一方、
水俣病を生かした先進的なまちづくりが行われていることがわかってきます。
芝居づくりの中、たくさんの魅力的な人たちと出会いました。
10月までに出会った多くの人たちに支えられ、
胎児性患者の人たちと障害者の人たちを中心に50年をふりかえり、
前を向いて表現する力強い芝居をつくることができました。

結果的に水俣の人たちから感謝されたのですが、
どうせ大変な思いをするなら、
自分が生まれ育った町で演劇をつくってみたいと思い、
立石に戻ってきました。



5.立石の町では再開発計画が


2006年11月、戻ってきた立石の町では
駅前再開発計画が持ち上がっていました。
しかも数年来、住民が賛成派と反対派に分かれ、
計画が進んでいない状況です。
その一方で、下町ブームや一部の居酒屋店の頑張りもあり、
よそからたくさんの人が訪れ、
町は活況を取り戻しつつありました。

自分が生まれ育った町。そして、これからも住み続ける町。
いままでで会ってきた人たちに紹介しても恥ずかしくない、
いや、誇れるような町であってほしいと思いました。

とは言っても、中学生以来、
立石から離れていた私は浦島太郎状態で知らないことばかり。
まずはひとつひとつのことと丁寧に出会っていくことから始めました。
「ふっきーの立石なんでも図鑑」では、
できるだけ先入観を排して、
私が出会って行ったものを記録することから始めたいと思っています。

そして、それが将来の立石のまちづくりにつながりますように。

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